決戦!川中島!!―八幡原史跡公園・妻女山―

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今回ご紹介するのは、史上名高い、あの「川中島古戦場」です。

気がつけば今からもう十年近く前になってしまいましたが、2010年の5月の連休に長野・山梨に旅行に行きました。僕もまだ若かったので、京都から夜行バスで移動し、ネットカフェで宿泊するという強行軍でした。今なら絶対やろうと思いません。

さて、本題の川中島については、今さら多言は不要と思いますが、合流する犀川と千曲川に挟まれた一帯で、戦国時代を代表する両雄、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が5度にわたって刃を交えた有名な戦場です。5度にわたる交戦のうち、最大のものは4度目の戦いであったので、一般に、川中島の戦いといえば、第4次川中島の戦いを指します。そこで、この記事も、巷間伝わる第4次川中島の戦いの経緯に沿って、写真をご紹介しましょう。

天文21年(1552年)、上杉憲政から関東管領職と上杉家家督を引き継いだ長尾景虎あらため上杉政虎(のちの上杉謙信、わかりやすくするため、以後、謙信とします)は関東制圧を目指す上で、背後となる宿敵武田との国境を固める必要に迫られ、同年秋、信濃へ出兵、川中島の南に位置する妻女山に布陣します。

ここが妻女山。展望台が築かれていました。

妻女山からは川中島を一望できます。現在ではこの一帯は長芋の名産地だそうです。

上杉軍南下の報を受けた武田信玄はただちに甲府を進発、川中島の北西に位置する茶臼山に布陣します。


これは甲府駅前の信玄公像です。すごい貫禄。

このあと、両軍にらみ合いの膠着状態となったため、武田軍が戦局の打開を狙って茶臼山を下り、八幡原を横断して、妻女山の東、海津城(のちの松代城)に入ります。しかし、なおも膠着状態が続き、信玄は山本勘助に作戦の立案を命じ、勘助は有名な「啄木鳥戦法」を提案します。キツツキが嘴で木の幹をたたき、驚いて穴から飛び出してきた虫を食べる(実際のキツツキはこんなことはしませんが、当時はこのように信じられていたのです)ように、武田軍を本隊と別動隊の二手に分け、別動隊が上杉軍を背後から襲って妻女山から追い落とし、その上杉軍を本隊が八幡原で待ち受けて撃滅する、という作戦です。

ところが、妻女山に陣取る謙信は、さすが軍神毘沙門天の化身、海津城から立ち上る炊煙がいつもより多いことから、武田軍が動くことを見抜きます。僕も謙信の真似をして妻女山の上から海津城のほうをにらんで「敵は動く・・・」とつぶやくのでした。(←アホ)

武田軍の作戦を看破した謙信は、武田別働隊の襲来に先んじて夜のうちに妻女山を下り、隠密裏に千曲川を渡って八幡原に布陣します。八幡原史跡公園の解説図をご覧ください。

夜が明け、八幡原を覆っていた濃霧がはれたとき、武田本隊は、目の前に上杉軍が整然と布陣しているのを見て驚愕します。別働隊に兵力をさいていた武田軍は上杉軍に兵数で劣るうえに、完全に裏をかかれた動揺から防戦一方となり、乱戦の中、信玄の弟信繁をはじめとする重臣が数多く戦死してしまいます。さらに、手薄となった信玄本陣に、なんと謙信が単身、馬を駆って斬り込んできました。

床几にすわる信玄に向かって謙信は三太刀斬りつけ、信玄はそれを軍配で防ぎます。

武田方の武将が槍で謙信の馬を刺して応戦、謙信は自陣へ引きあげて行きました。

その後、妻女山に向かっていた武田別働隊が八幡原に到着すると、形勢は逆転、挟撃されるかたちとなった上杉軍が犀川を渡って北へ撤退していったことで合戦が終わりました。

戦いが終わった後、武田方の海津城主高坂昌信が、敵味方の区別なく遺体を手厚く葬ったとされるのが「首塚(屍塚)」です。

なお、実際の第4次川中島の戦いがどのようなものであったか、確実な史料が存在しないため、実はよくわかっていません。上に述べたのは、後世になって作られた軍記物語や、それに基づく講談などで語り継がれてきたストーリーで、かなりの割合がフィクションと思われます。ただ、双方が多数の死者を出した激戦であったことは確かです。

戦国時代を代表する激戦がおこなわれた川中島も、今ではのどかな史跡公園となって、平和な時間が流れています。

公園のそばには、リンゴ狩り園も広がっていました。


旅行地の情報
● 日本、長野県長野市小島田町1384−1
● 日本、長野県長野市松代町岩野2881 妻女山展望台



決戦!川中島!!―八幡原史跡公園・妻女山―

この文章は,スチームベースの旅行情報サービス

trips.teem で作成された文です。

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