終戦の頃、父は満州にいた

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https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%B4%B2

これは大事なことなので父から聞いた戦争の頃の話をします。

終戦(1945年)の時、父は満州にいて小学生でした。十分、物心がつく年でしたね。

なぜ満州にいたかというと、父方の祖父が知り合いの人の借金か何かの連帯保証人になって、その知り合いの人が借金を返せなくなってとばっちりが祖父にきて、一家離散を防ぐため満州行きを決めました。

父の姉は繊細な心を持っていた人で戦争中も彼氏といっしょにこっそりクラシック音楽のレコードを聴いていました。

満州では日本人がいい暮らしをしていました。小説家、作詞家のなかにし礼も満州にいた一人で「王子様みたいな暮らしをしていた」と言っていましたね。日本は中国人から搾取していたわけです。中国人の貧しさといったらお話にならないぐらいでした。日本人の中国人に対する扱いがひどかったそうです。「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャンじゃないけどやむなく日本人のものを盗む中国人に日本人がふるう暴力。

その中で私の祖父は中国人と対等に接し、中国人から「大人」(たいじん、中国語で立派な人という意味)と呼ばれていました。祖母は中国人から本場の餃子の作り方を教えてもらいました。ヤンチョ(記憶がおぼろげで正確には覚えていないけどそういう名前だったと思います)という中国人の中年男性が祖父一家を慕って使い走りみたいなことをしてくれていました。

日本が戦争に負ける頃、満州の日本人があわてて逃げて、祖父は病気をして祖母が一人で荷物をまとめていた時に兵隊がやってきて、銃剣を突きつけました。そういうのにも動じなかった気丈な女性だった祖母がのちにがんで亡くなる時に「こんなだったら死んだ方がいい」と言うぐらいだから、がんの痛みってどれぐらい?と思います。

日本が戦争に負けて日本人と中国人の立場が逆転した時に、それまで威張っていた日本人が復讐されましたが、祖父一家だけが復讐されずに済みました。父を含めた祖父一家が他の日本人といっしょにトラックに乗せられて、トラックが出発する時にヤンチョが泣きながら追いかけてきたそうです。

元々病気がちだった父の姉は満州からの引き揚げの最中に亡くなりました。

日本に帰ってからも苦難は続き、たとえば祖母が着物を持って食べ物をわけてもらいに農家に行っても冷たく断られたり(漫画「はだしのゲン」にも同じようなことが書いてあります)。

まあでも、日本はかつて、今ロシアがウクライナにやっているようなことをやっていたわけです。私のFacebook友だちのお一人である大学の先生はロシアがウクライナ戦争を始めた時にたった一言「事変」とつぶやいておられました。私は満州事変と重ねておられるのだなと思いました。で、日本は自分たちの過去のことを学校の歴史の授業でちゃんと教えない。だからいまだにお隣のアジア諸国とぐちゃぐちゃもめるわけです。

父と父の兄は自分たちの戦争体験のことを本にして出したらどうかという話をしていたようですが、実現せず。ですので不十分ながら私がここで書くのです。

ああほっとしました。

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