父に対する複雑な感情

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私の父は今、南仙台の老人施設に入っています。たぶん、そこが終の住処になると思われます。そして、父が一人で住んでいた実家は今、人が住んでいない状態です。

私の家族は父と私と妹ですが、父の暴力から逃れてまず妹が家を出て一人暮らしになりました。そして残った私も東日本大震災をきっかけに家を出て、生活訓練施設を経て一人暮らしになりました。

一人残された父は食生活などボロボロだったと思います。坂道を転がり落ちるように父の健康状態は悪化して、心筋梗塞、そして心不全になってろうさい病院に入院して、老人施設に入りました。

思えばこうなるまでの何十年という歴史がこの家にはあります。

小さい頃は国鉄(今のJR)の運転士だった父が仕事に出かける時にひらがなの練習を課されて、「これ、やれよ。やったふりしたからって調べればわかるんだからな」警察みたいなことを言われて恐怖で私の心はかたまっていました。父が家からいなくなると黒い雲が一時的に晴れて、明るくなるのですがまた黒い雲が戻ってくるのを知っています。

父は若い頃、職場の合唱団D51の指揮者をしていました。そして職場の合唱団の全国コンクールで1位をとったことがあります。歌った歌は「ドンの若者」というロシア民謡です。彼はいまだにその頃の栄光と共に生きているっぽいです。

高校生の時はA.J.クローニンというイギリスの作家の処女作「帽子屋の城」やアメリカのベティ・グリーンの児童文学「ドイツ兵の夏」を読んで、この作品たちの家族を見て、「うちもこの家族みたいに崩壊する運命なんだ」と思っていました。

大学の時に母がくも膜下出血で倒れて、数年の介護ののち、もう家で介護は無理だと老人ホームに入れて、インフルエンザが流行ってあっけなく母は寂しくそのホームで亡くなりました。

父は自分はこのままではダメだと思って社交ダンスの教室に通って、彼を慕う女性も現れましたが、父の乱暴な言動が災いしてせっかくの友情も終わり、腰痛に悩まされるようになり、社交ダンスはいつの間にかやめていました。

すごく簡単に書いています。でもちゃんと書いたら本一冊書けるぐらいかもしれません。

父は自分は民主的な考え方だという自負がありましたが家の中では封建的な考え方そのもので、女性差別的言動も激しかったです。うちだけではないみたいです。リベラルの自負がある人々にもパワハラ、セクハラが当たり前にあります。そのような矛盾を見てきて冷めた目で物事を見るようになってしまいました。

人生の晩年に来て、本当は帰りたいのに実家に帰れず、妹は父が生きているうちに話し合い、実家の処分を考えています。父方の叔母も同じ考えでしょう。父は妹も父方の叔母も嫌っています。穏やかに物事が進むとは思えません。

時々、クリスマスを祝ったりした一家団欒のシーンも思い出します。問題のある家だけどうちにもこんなシーンがあったんだなと複雑な気持ちになります。

しばらく前は父のことを考えると寂しさでいっぱいでしたが、今はそれも薄れてきています。

まあ、人間誰でも死にます。父はましな方です。私なんて、自分は孤独死するのではないかと思っています。

ということでまとまらない文章ですがこの辺で終わります。

写真は朝、開店直後のドトールの店内。
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